大学の図書館
大学は居場所があるようなないような感じでそんなに好きじゃなかったけど、大学の図書館は好きだった。
居場所がなかったから好きだったのかな。
常日頃仲間と一緒にいる人も、いない人も。
静かな図書館では一人でいる人が圧倒的に多い。
勉強してる人、本を読む人、PCでレポートをうつ人、それぞれだけど、みんなひっそりとした空気を壊さない、心地いい一人の空間。そんな感じだった。
みんなも、唯一息が抜けるところだったのかもしれない。
一階の自習スペースは、午後は日が射して眩しく、眩しい時間になると司書さんがブラインドを下ろす。
その音で、ああもう3時か、と気づく。
外の葉っぱの影がノートにうつり、ドイツ語の文字が滲んで、かさなる。
一向に予習は進まない。諦めてツイッターのタイムラインをひっぱる。みんな暇そうだ。
あと地下の書庫も好きだった。
階段で地下に降りると空気がひんやりし始めて、喧騒も遠のいていく。
金属製の無機質な移動式本棚には天井まで本が詰まっている。降りて右に進んだ辺り、芸術学や美術史学の書庫を何往復もしながら本を選ぶ。
レポート用の文献、卒論用の建築様式の本、などなど。背表紙を見ては手に取り中身をパラパラめくって、読みきる自信がないな、と本棚に戻す本も多かった。甘ったれだ。
片っぱしから読めばよかったんだ。今となっては国会図書館に行かなきゃ読めない本だってたくさんあったかもしれない。
ああ、学べる環境に身を置きながら積極的に学ばなかったことを悔やむなんて、ばかのやることだし、紛れもなくわたしはばかだ。
でもいつだって、恵まれた環境にいるときにはそれに気づかない。
いつもそうだ。いつも懐古厨。
まどろむような膨大な時間を埋めるように図書館にいたけれど、思い返すとどこを切っても愛おしい空間だった。
有名私大の図書館で勉強している私、というくだらないプライドも手伝ったかもしれない。
もどりたいなぁ。もどれないなぁ。
過ぎ行くものはどうしてこんなに美化されるんだろう。
言い訳
カウンセリング(セルフ)
オーマイゴッド
今から書きたいのは、ものすごく好きなものがある人(ヲタク)と、ヲタクになるほど好きなものは無いかつ、ヲタクの考えを理解できない人の間に広がる、途方もない溝についての私なりの考察というか叫びです。もう語り尽くされた感はあるけど、まあいいです。